fragrant water

愛、幸せに気がつく毎日。人生に感謝です。

身体の基礎を作ったものたち。

今日のあさイチに森山良子さんが出ていた。

何度となく聴いた『涙そうそう』を聴いた。

今までと違うのは、初めて知った歌詞の意味。

若くして亡くなった森山良子さんのお兄さんを想って書いた詞だと。

それを聞いたあとの『涙そうそう』はまるで違った。

そう、私の気持ち同じだったから。

とめどもなく流れた涙。

しゃくり上げる大号泣、朝からね(笑)。

間違いなく、私を支えてくれる歌のひとつになるだろう。

 

 

 

 

緩やかに、ゆるーーーやかにお仕事をさせていただいているこの頃。

その中でとにかく、とにかく、とにかく痛感しているのは、

身体の基礎を作ったものたちの存在

である。

 

患者さんの身体を触らせていただき、

治療させていただく。

治療後の様子を感じ、診させていただく。

同じ人は一人としていない、誰もが違う骨格や肉付き、身体の反応を持っている。

けれど、共通しているのは

身体の基礎を作ったものたちの存在

だと思わされている。

 

始めの頃は半信半疑だったけれど、やっぱり間違いない、気がする。

 

あなたの身体を作ったのは、あなた自身だ

ということ。

 

 

母体から受け取ったもの、父親のDNAから受け継いだもの、それはもちろんある。

しかし、この世に誕生してから20代まで習慣にしてきた食事や睡眠の影響はどうやら想像を超えるようだ。

治療過程の反応が違う、

回復力が違う、

自身の身体の変化の気づき方が違う。

たとえ、20代後半から荒れた生活をしていても、基礎が身体を助けてくれるようだ。

(もちろん限度はあるし、必ずそうとは言い切れない。)

ここまで違うとは、思ってもいなかった。

 

治療する側の私は我を反省するばかり。

私は全くもって基礎を作れなかった人間だ。

寝る間もなく働いて育ててくれた親の目を盗んでは好き勝手やり過ぎてしまった。

私の身体を作ったのは、私だった。

治療家の私は、不健康の見本である。

だからこそ、治療家をしているのだろう。

過ぎてしまったことを悲観せず、事実を確認しながら健康への道のお手伝いをさせていただきたいのだ。

 

 

 

 

先日、患者さんから

「この道に入ってから健康になりましたか?」

と聞かれた。

残念ながら…。

この道に入って、

私は私が不健康であることを知る、という大事なものを手に入れている。

大好きな秋。

私は暑さがハッキリしている夏や、寒さががっつりくる冬よりも、ふわふわしている春やじんわり冬を感じる秋が好き。

 

だけど、今年の秋はつらい。

そこへきてこの天気。

梅雨はなかったのに、この秋になって長雨。

どんより。

さらに体にダイレクトにくる寒さ。

メンタル落ち込みまくりだ。

 

妹の肉体と別れて今月でやっと半年になる。
夢中で過ごした半年。
秋の長雨と相まって、ひたりひたりと実感が心をしめつけている。
分かってる、分かっているのに分かっていない。
そんなことの繰り返しだ。
喋る気にもなれないくらい、心は沈んでいる。

 

 

二十代前半、毎晩のように死について考えて泣いた日々も秋だった。

家族や大好きな人たちと別れるのが嫌だった私は、死を選ぶことはなかった。

その代わり、書き置きをして真夜中に家を飛び出した。

たくさんの覚悟を胸に秘めてのことだった。

あれから数年、家を飛び出した日の前後は心がざわついて涙が溢れたっけ。

 

あの時ある人に、

『あなたの今の決断は、人生を一冊の本にしたら1ページにも満たないんだよ。一行かもしれない。』と言われた。

さすがに一行ってことはなさそうだけど、時を経て確かに1ページに満たないかもしれないね、と思うのだ。

当時の私は生きるか死ぬかで本気で悩んだのだけれど、今では良い経験として心に残っている。

 

 

妹への想いは、たくさんの月日を重ねると一体どうなっていくのだろう。

寂しさがなくなることは、ないだろう。

 

だけど、と思う。

今年は梅雨がなくて良かった。

自分を見失うほど悲しみにくれていた六月が、いつまでもじとじとしていなくて良かった。

夏らしくない天気だったけれど、猛暑続きで体が疲弊することを避けられて良かった。

 

 

今はただ、ゆっくりしよう。

そういえば、指を怪我したのもそのサインだったのかもしれない。

ここで頑張らず少しボーッとして、たくさん涙を流すと良いよっていうサインだったのかもしれない。

 

ゆっくりしよう。

耳の奥にある声。

 

『なんでお前は不注意なんだ。』

『いつか酷い目に遭うと思った。』

『何度やるんだろうね?』

この声が響いている。

私にしか聞こえない声。

母の声。

母は近くにいないのに、響いている。

 

 

昨日の夕方、夕飯を作っていた。

千切りキャベツを切り始めた時、左手の人差し指の第一関節のあたりをグサッと切った。

切り落としちゃいない。

深さは1.5mm程度、大きさは1cm程度。

しかし、落ちた肉片はしっかり目で確認できるほどだった。

さすがに焦った。

 

事あるごとに指を切る私だが、今回はなかなかの傷だ。

落ち着け、落ち着け。

私はいちおう健康成人であるから、このくらいの傷なら慌てる必要は無い。

そう頭で分かっていても、一人で慌てふためく。

出血が多くて、予想より止まらなくて、とりあえず看護師の友達に電話。(といっても、20歳ほど年上なのでベテラン。)

間違った止血方法を訂正してもらい、ギャーギャー言いながらなんとかした。

 

 

あとは治るのを待つしか無いので、痛い痛いと喚きながら今に至るが、負傷した瞬間から母親の声が私の耳の奥で響き続けている。

 

『なんでお前は不注意なんだ。』
『いつか酷い目に遭うと思った。』
『何度やるんだろうね?』

幼い頃からアラフォーになった今まで何度となく浴びせられて来た言葉。

 

 

私は、母親から見れば不注意なのかもしれない。

それでも私なりに気をつけている。

こんな怪我をしなくたって、少しの段差で躓いても、ジュースでむせて咳き込んでも、不可抗力の失敗でも、この言葉は浴びる。

私を暗いところに蹴り落とすようなこの言葉が大嫌いだ。

今では夫も『気をつけてください。あなたは注意が足りないです。』みたいなことを口にする。

些細な失敗で私そのものを批判されている気になる言葉が大嫌いだ。

うるさい!うるさい!

 

 

私を肯定できるのは、わたしだけ。

「大丈夫、私自身がダメなわけじゃ無いよ。酷くならないように気をつけようね。」

そう私に言い聞かせている。

この指の傷と、

心の中にある誰にも見えない傷を労っている。

 

悲しむ自分と、

それを抱きしめられる自分の

両方が存在できるようになった。

母には言わないけれど、パートナーには

「そんな言い方しないでよ!」

って言える自分が今はいる。

 

大丈夫。

私自身がダメなわけじゃ無いよ。

信仰心につながる。

偏りたくない。

 

そう思うけれど、少し偏ってしまっている、という自覚がある。

 

鬼以上に怖かったと聞く祖母は、若くして亡くなった夫(祖父)の姿を追い求めていたらしい。

妻と9人の子どもを置いて先に旅立った祖父。

厳格で、何事にも果てしなく厳しかった祖母。とても現実的な人だった。

そんな祖母も、祖父が亡くなった時は、お寺に駆け込んで、真っ当じゃなさそうな宗教に入ったことがあったんだそうだ。

娘である私の母は、信じられない思いだったらしい。

孫である私も、信じられない思いだ。

 

「お母さんは、霊能者とか、宗教とか、そんなのはイヤ。」

と言う母。

それでも、霊感を持つ知人や友人から聞いた中で納得するものは信じている。

『あの世にいっても、あの子は特別』と思わせる内容には飛びつく。

イヤだ、と言いつつも、祖母から貰ったというお経本を探している。

「おばあちゃんに教えて貰ったお経を読みたい。」と言う。

 

母に対して冷静にみている私だけれど、私は私で何かにすがっている。

霊的な事を考えることが増えたし、信じることも増えた。

すがったり、頼ったりもする。

 

 

どの国にもある宗教。

何を、どのように頼るか、信仰するか、崇拝するか、それは国にも人にもよるだろう。

昔から霊能者はいたみたいだし、庶民の中にも霊感を持つ人はいただろう。

だけど、

大切な人を亡くしたことでその力は強まり、信じる気持ちも強まっていったのではないか、と思う。

その体は動かなくなってしまったけれど、一生傍に居たいと思う気持ちから。

気が狂ったと思われてもいいから、会いたいと願うのは、私だけじゃないだろう。

暇八割で仕事をしています。

届出は出しております。

開業のための届出を出したのは、妹の四十九日の日。

重たいね(笑)

重たいけど、私にとっては大事なこと。

資格を取って、いざ準備をしていこう!という時に遭遇した妹との別れ。

だけど、仕事をするには県の機関に届出が必要だった。

辛いけど、悲しいけど、何かをする気にはならないのだけど、必要だった。

しかも、届出先が妹が息を引き取った場所の敷地内と来たもんだ。

私は、

『明日、ついにお骨とも離れなければならないんだ。』

という寂しさをバネにして、あの辛い思い出になってしまった場所に行った。

 

忘れもしない。

手続きの担当者を待つ間、チカラを出そうとして目をやったストラップにヒビが入ってたこと。

夫と妹と3人で撮った写真のストラップだった。

勇気をくれているような、いや辛い場所に嫌がっているような。

どちらにせよ、私は亡くなってもなお妹にチカラをもらっていた。

 

仕事は月に数回程度。

仕事、忙しい?とよく聞かれる。

とんでもない。

なんなら暇。

自由にゆったりと時間を使っている。

体調が安定しないという、有るまじき状況はあるけれど、それにしても自由に使っている。

しょっちゅう寝てるし、一人でカラオケにも行くし、フラフラとお店をうろつくし、県外にも遊びに出かけちゃうし、ゴスペルグループにも入っちゃうし、ピアノのレッスン受けちゃってるし。

出費はあるのに、収入はない。

もはや、専業主婦状態。

家計としては必死に共働きすべき水準なのに、だ。

 

立っているステージが違う。

資格を取って抜け殻になったわけではない。

抜け殻になったと言うならば、最愛の妹を亡くした方にあるだろう。

けれど、私が躍起になって仕事をしていないのには違う理由があると思う。

目的として立っているステージが違うのではないか。

『いま一番何がしたいですか?』

『いま一番何が欲しいですか?』

そう聞かれたら、すぐさま出せる答えがある。

たぶん、そこに心が向かっている。

 

だからと言って、仕事をしたくないわけでもない。事実、技術は忘れてはならないし、定期的に仕事は必要なのだ。

それを実現できる程度は出来ているから満足してしまっているのだと思われる。

 

私に嘘がつけません。

なんて正直なんだろう、と我ながら思う。

そういえば昔、自分の本音が分かっているのに体裁を整えるためにある施設の面接を受けたことがあったっけ。

それで、一次試験の合格の電話をいただいて、その場で辞退を申し出たことがあったっけ。

そんなことを二回ほどやったっけ。

 

どうやったって、自分の気持ちに嘘がつけないのだ。

私は、心と体がしっかりと抱き合うようにして生きているようだ。

どうしてもバラバラにしてしまいがちだからこそ、不調という形で表出するけど、心にしっかり向き合えるなんて偉いもんだ。

 

私とワタシは一心同体。

この世の中で、心と体を1つにして生きて行くのは簡単じゃない。

だけど、私の中のワタシの声を聞いてひとつひとつ進んでいければ、人間の私は楽になっていくだけ。

親の意見でもない、世間一般の意見でもない、ワタシの意見を聞けるか、大事なのはそこから。

そして、次に大事なのはそれを行動に移せるか。

 

妹と別れてから5ヶ月。

私は、私の中のワタシとたくさん向き合うことが出来ている。

何もしていない5ヶ月なのに、膨大な気付きがあり、数え切れない経験を繰り返している。

そして、ワタシと一心同体を再確認している私は、ずいぶん楽に生きていくチカラを備え始めている。

 

やっぱり私は幸せ者だ。

前にもこんな事を書いたけれど、

私が好きなんて、幸せなことじゃないか! - fragrant water

私はやっぱり幸せ者だ、というハナシ。

 

得意なことは何もない。

何かが秀でてるとか、「得意です」と言えるものがあるとか、ずうっっっと続けられていることがあるわけじゃない。

自慢できることなんて、そうそう無い。

家族が好きとか、今も夫のことが大好きとか、なあなあになりがちな昨今(?)心から愛せる人がいます!ってことかなぁ。

こんなの、自慢にするたぐいじゃない。

私には"これ"という自慢話はない。

 

根拠のない自信ならある。

何にもないくせに、「私なら大丈夫」という根拠のない自信がある。

これは、私が私の経験で得て来たものじゃない。後付けで体験したことがプラスされていることは確かではあるが、持って生まれたものではないのだ。

幼少期から、周りの大人たちが「あなたなら大丈夫よ」といつも言ってくれたことを本気で受け止めてきた結果こうなれたのだ。

私が本気で受け止められたのだって、周りの大人たちが(少なからず不安や心配を持ちつつも)心から本気で「あなたなら大丈夫」と思ってくださったからこそなのだ。

 

自信家とは違う。

いつもどんな時も自信があるわけではない。"◯◯を頑張ったんだから大丈夫!"と言うようなモノじゃないが故、四六時中持ち合わせているのではない。
困った時、苦しい時に、発動される仕組みとしてて根底に持ち合わせている自信なのである。
無条件に信じられる存在として、自分がある。

 

そりゃあ人間だから、「私なんてクソだ」と思って全てを否定する時がある。

「こんな私だからダメなんだ!」とむやみやたらに全否定することだってあるのだ。

けれど、それは長くは続かない。

そのうち、自然と根拠のない自信がやってくるのだ。勝手に。

 

わたしが信じた人、信じたことは大丈夫。

全く根拠がなくても、私自身を信じている私。

その私が信じた人や、信じたことなら大丈夫、というこれまた根拠のない(根拠にならない)自信を持っている。

私はよく悩むタイプだが、何かを選択しなければならないくて悩む時にも発揮される。

散々悩んで出した答えに対して、「大丈夫、私が選んだから。それでも失敗したら、諦めがつくじゃないか!」という自信。

どこに自信を持ってるのかワケがわからない。 (笑)

 

やっぱり私は幸せ者だ。

既に明らかだが、何万回の練習や、血のにじむ訓練などによって手に入れたものじゃなく、私を形成してくれた周りの人々が私に与えてくれたものだ。

そして、それらを受け取る心もまた、周りの人達が私に与えてくれたもの。

自己否定もたくさんしてきたけれど、

「いいじゃないか。これは私のカラーだ。足りないところはこれからの人生でつくっていこう。」

と思えるところに立てている。

たくさんの人達に支えられてここまで来たことを実感できる。

これを幸せ以外になんというのだろう。

 

 私もいつか、誰かの、何かの幸せを後押しできるような人になっていたい。

神様vs好きなこと。

神様は信じていますか?

と聞かれたら、

はい。

と答える。

今の日本社会では、怪しさが漂うけどね。

 

ところで、

神様vs好きなこと

となった場合、

私はどちらを選ぶのでしょうか。

 

神様を信じる心

私は、スピリチャルな事に興味があるし、話も好き。自身も感じることがあるし、メッセージは受け取っていると信じている。

 

最近、スピリチャルをお仕事にされている方々や、能力を持つ方から、私宛に神様からのメッセージをいただく機会がある。

 

見えない相手だけど、私を見守り導いてくれている人たち。

相手が神様の場合もあるだろうし、ご先祖さまでもあるだろうし、家族かもしれないし、守護霊っていうこともある。

貴重な意見はありがたく、積極的に受け取りたいと思っている。

ただし、その指示やアドバイスに従うか否かは私の判断。(聞かないんかいっ)

 

神様は絶対か?

たとえば、神様がとつぜん現れてこう言ったらどうだろう。

『いまの旦那さまとは相性が最悪です。早くお別れするべきです。』

即答、「嫌です。」

当たり前だ。

 

もしそう言ったのが正真正銘本物の神様だとしても、私の気持ちまで蔑ろにするはずがない。

 

歌いたくなったある日

またしても神様からメッセージをいただける機会に遭遇したある日。

なぜか私は迷った。

それまでは直ぐにお願いしていたのに、何かが私を引きとめていた。

引っかかるのには理由があるはず、と思いしばらく時間を置いてみると舞い降りて来た想いは

歌いたい

という気持ちだった。

 

その想いと同時に、(なんちゃって)ゴスペルグループに参加できたし、いつもの凄腕トレーナーさんにレッスンの申し込みも出来た。

歌ってみたら、新しいスキルを身につけたみたいなランクアップ感があった。

 

神様より歌を選んで良かった、と思った瞬間。

 

本能=メッセージ

困った時の神頼み、なんて言うけれど、神様だろうが人間のアドバイスだろうが、結局は自分のやりたいことと適合しないと嫌なんだろう。

でも、直感や本能にきちんと反応できるってことは、スピリチャルなメッセージもまたしっかり受け取れることになるんじゃないかと思っている。

(信じる、信じないは関係なく)

 

今回、歌うことよりも神様からメッセージを受け取る方を選んでいた場合、今の私には"その場で行進"になっていたと思う。

歌を選んだことで、踏み出せた一歩があった。

そして、メッセージを受け取れるチャンスを迷ったことは、これもまたメッセージだったんだと思っている。

おかげで、とっても幸せな気持ちを味わえた。

(主人に言わせれば、考えすぎだし、ただの偶然、というやつだ。)

 

 

 

こーゆう類の話は、やたらと他人に話すもんじゃないと言われるけれど、私は変じゃないと思うんだけどなぁ。

現実的な人も良いし、現実社会を生きながら見えないものを信じていても良い。

何事もバランスよく持ち合わせていれば問題ない。